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    一つ前のポストで紹介した「バルデッサリ、ルウィットを歌う」で歌われていたルウィットの「コンセプチュアル・アートに関するセンテンス」の日本語訳です。初出は1969年発行の”0-9 (New York)” 及び “Art-Language (England)”1969年5月号。このテキストは1973年発行の”in Six Years: The Dematerialization of the Art Object from 1966 to 1972″ルーシー・リッパード編、にも掲載されています。
    原文はこちら

    「コンセプチュアル・アートに関するセンテンス」
    ソル・ルウィット

    1. コンセプチュアル・アーティストは合理主義者というより神秘主義者だ。彼らが飛躍する結論には、論理では到達できない。
    2. 合理的判断は、合理的判断を繰り返す。
    3. 非合理的判断は、新しい経験をもたらす。
    4. 形式主義の芸術は本質的に合理的だ。
    5. 非理性的思考は、絶対的かつ論理的に跡づけることができる。
    6. もしアーティストが制作途中に考えを変えたなら、作品は妥協の産物になり、過去の模倣となる。
    7. アーティスト個人の意志は、着想から完成までのプロセスにおいて副次的なものである。彼の意図は単なるエゴでしかない。
    8. 絵画や彫刻という言葉は、伝統の全体とその受容を意味しており、その言葉の使用は、伝統を乗り越える作品を渋々制作しようとするアーティストたちに制約を課すことになる。
    9. コンセプトとアイディアは別ものだ。前者が全体的な方向性を定めるのに対し、後者はその構成要素なのだ。アイディアはコンセプトの手段である。
    10. アイディアそれ自体で作品たり得る。アイディアは形へと発展するかもしれない一連の[思考の]流れの中にある。すべてのアイディアが物質化される必要はない。
    11. アイディアは必ずしも論理的秩序に従って展開されるわけではない。それは思いもよらない方向に発展することもある。だがあるアイディアは、次のものが形成される前に、心の中で感性されなければならない。
    12. 成立した作品のそれぞれには、形にならなかった多くのバリエーションが存在する。
    13. 作品はアーティストの心から鑑賞者の心への導体である。しかしそれは鑑賞者に届かないかもしれないし、アーティストの心に留まるかもしれない。
    14. アーティスト同士の言葉のやりとりが、アイディアの連鎖を生むことがある。彼らが同じコンセプトを共有しているなら。
    15. 他の形式より本質的に優れた形式は存在しないのだから、アーティストは(文章でも語りでも)
    言葉の表現からモノとしての表現にいたるまで、あらゆる形式を利用することができる。
    16. 芸術のためのアイディアに基づいて言葉を使うならば、その言葉は芸術であって文学ではない。同様に数字が用いられた場合、それは数学ではない。
    17. 芸術に関するすべてのアイディアはそれ自体芸術であり、芸術の伝統の枠内にある。
    18. 人は過去の芸術を、現在の決まり事に当てはめて理解してしまう。そのため、過去の芸術を誤解することになる。
    19. 芸術の決まり事は、個別の作品によって変えられる。
    20. 良い作品は、私たちの感覚を変え、そうして決まり事に対する理解も変える。
    21. 様々なアイディアを知ることが、新しいアイディアへと導く。
    22. アーティストは自らの作品のイメージを持つことはできないし、作品が完成するまで、それを自覚することはできない。
    23. あるアーティストが作品を誤解する(作者とは違った理解をする)ことがある。しかしその誤解が彼の思考の連鎖を触発することもある。
    24. 認知とは主観的なものだ。
    25. アーティストが、必ずしも自身の作品を理解している必要はないかもしれない。アーティストの見識は他の人々に比べて優れているわけでも劣っているわけでもない。
    26. アーティストが、自分の作品より他人の作品をより良く理解することがある。
    27. 作品のコンセプトには、素材や制作プロセスが含まれることもある。
    28. アーティストの心に作品のアイディアが生まれた時点で作品の最終形態は決まるのであり、作品の制作は盲目的に遂行される。その際には、アーティストが気づかない多くの副産物が生み出される。それらは、新しい作品のアイディアとして活かされることもあるだろう。
    29. 制作プロセスは機械的であって、みだりに操作するべきではない。それが進むに任せなければならない。
    30. 芸術作品には数多くの要素が含まれるが、最も重要なのは最もあからさまな要素だ。
    31. アーティストが素材を変えながら複数の作品に同じ形式を用いる場合、彼のコンセプトには素材が含まれていると考えられる。
    32. 陳腐なアイディアを美しく仕上げることはできない。
    33. 良いアイディアをだめな作品に仕上げるのは難しい。
    34. 過剰な技術を身につけたアーティストの作品は、表層的なものになる。
    35. 以上の文はアートについてのコメントであって、アートではない。

    1 名前: ◆newsSM/aEE @きよたろーφφφ ★[] 投稿日:2011/11/22(火) 20:05:17.00 ID:???


    物語づくりで、『要素の相対論』(勝手に命名)を用いるとより
    娯楽性が増すかもしれないという話題です。



    作品をよりエンターテイメントにするとき、「自然さの演出」と、「不自然さの演出」に気をつけてみましょう。
    この二つは共存可能で、適材適所で配置できるとより質の高い作品となるはずです。ストーリーや
    キャラクターの言動、世界観設定、キャラに付随する特殊能力など、すべてに応用可能です。



    ストーリーの盛り上がりを例にとって説明してみます。自然さとは、言い換えれば当たり前な展開です。
    主人公いたとして、その人物がどのように過ごすことが当たり前か、主人公の境遇が過酷だとするなら、
    どのような状況が当たり前なのか……という皆さんの最大公約数を引き出す行為です。



    そして不自然さとは、言い換えれば外連味です。外連味は、カッコ良さとか、見栄えとか、もっというなら
    その場のノリという変換も可能ですあくまで自分が考える「不自然さ」なので、ご容赦願います)。



    自然と不自然には相対的な差がありまして、そのレールに乗っている(つまり物語を読んでいる)人物は
    その相対差を『物語の起伏』と感じます。この起伏が大きい、つまり高低差があると、レールに乗っている
    人間も「なんか上にいったり下にいったりしてる!」みたいに気づきますよね? それが演出です。



    これは自分の作品なのですから、そこに個性も盛り込みましょう。通常、本当ならここではこういう
    自然な対応を取らざるを得ないけど、物語が盛り上がるのはきっとこうだ!!と思ったら、絶対そっちを
    選ぶと良いです。



    それは天啓でも閃きでも、今までの経験からでも、なんでも良いのですが、自身の信じる部分に従って
    書く行為とは、作品のオリジナリティを強める働きがあります。誰とも違う変化こそが、その作者ならでは
    の特徴になり、結果読者への印象を強めます。



    もちろんその個性の選択が人気を左右するので繊細で難しい決断なわけですが、起伏なく平坦な作品
    よりも個性がある作品のほうが、創作としては一歩前進ですので、止める必要はありません。



    で、むしろその後に生じる「つじつま合わせ」に苦労しましょう。まず起伏ありき、矛盾はあとで解決、
    この方が切れ味鋭い作品がうまれるはずです。矛盾解消のために四苦八苦することは、「改稿スキル」
    の向上につながって良いです。



    2 名前: ◆newsSM/aEE @きよたろーφφφ ★[] 投稿日:2011/11/22(火) 20:05:25.02 ID:???


    具体例。不良がクラスでいじめをしているとします。みんなは普通はびびって何も言いません。これが
    自然。しかし、ここで主人公は不良に「やめろ」を言葉を発する。これが不自然。不自然なシーンでは、
    無理矢理な展開でも、そっちのほうが格好いいじゃん!と思ったら、それは譲らないことが大事です。



    ただ、そこだけ気合いを入れて盛り上げようと思っても、実は物語自体があっと驚く展開になったわけ
    ではありません。相対論的に考えると、実は「盛り上がり前に描かれている内容」のほうが重要です。



    それまでをちゃんと「自然」に書けているか――読みやすさだったり、世界観の丁寧な説明だったり、
    親切な誘導だったり。『いじめを黙認する教室』というのが「自然」である状況を、盛り上げる前に如何に
    描いておくか。その相対差、高低差が『起伏』になります。



    なので、できるかぎり前ふりは手を抜かないようにしないといけません。忘れないようにしたいのは、
    「不自然さ」は、「自然の中にある異端」だから不自然なのです。不自然があちこちに存在したら、
    それは相対的な尖りが感じられず、とっておきの武器としては機能しません。



    々にして、書きたいシーンというのは「不自然なシーン」のはずです。しかし書きたいものだけを気合い
    入れて書いても、物語の起伏=エンターテイメント性はでないのです。その周りにある高低差を意識し、
    「自然なシーン」もちゃんと描くことが重要です。



    「読みやすさ」や「わかりやすさ」は、バカにできません。それがあってはじめて「難解な比喩」の効果が



    あとすこしだけ、文章表現について。こちらでは「親切」と「不親切」で相対論を。冒頭~中盤まで
    世界観説明、キャラクター描写はなるべく親切に書いておきます。そして肝心なこだわりの部分は、
    わざと不親切に描くのです。とくにこれは人間関係の描写で威力を発揮します。



    体的には恋愛やラブコメ的な物語では、『好き』という言葉で『嫌い』を表現できたり、『嫌い』と言ってる
    その本心が実は『好き』だったりと、かなり一言一言が大事になってきます。



    好きだ」と言うのは簡単ですが、あえて不親切に「ようやく、君の姿が見えたかも」とか言ったりする
    わけです。そんな「不親切」な表現の前に、そのキャラクターが相手のことを好きになっているだろうな、
    と思われる描写を「親切」に描く。そこが大事なのではないかと思う次第です。



    文ツイート、大変失礼いたしました。
    みんなも小説を書こう! 
    そして電撃小説大賞に応募してみよう! 応募待ってます! m(_ _)m

    22 名前:この名無しがすごい![sage] 投稿日:2010/02/10(水) 19:48:14 ID:MZtyEaSy
    »18
    プロットって基本

    1.どういう内容で何枚くらいの作品か?(概要)
    2.読者層はどこを狙うのかか?
    3.類型作品はあるか(小説、漫画、映画問わず、モチーフやヴィジュアルイメージとして使うのか、それとも視点を代えてアレンジするのか)
    4.小説の中で何を見せたいのか(文章の巧さか、ストーリーか、アクションか、萌えか)
    5.キャラクター設定。(性別、大まかな年齢や思考党を簡単に箇条書き)
    6.ストーリーライン(どんな始まりで、どう話が収束していくのか)

    こんな感じだから、それをそのまま埋めていけば形にはなる。

    大体1を800~1200字くらいでまとめて、2と3は400字以内。
    4を600~800字、5を1200字~2000字(内容によってはそれ以上)
    6は2000字以上。(起承転結の四つのトピックに分けると1トピック約400字位)
    俺は大体そんな感じで作れば、最低でもA4三枚は超える。
    綺麗に書いたところで、突っ返されるのがオチなのが悲しいところだが……。

    I am gathering you: Connecting the Dots論

    toukubo:

    内田樹さんのコネクティングドッツも細部もやや間違ってそう。些細なとこだけど。「自分がなぜそのドットを選んだかが事後的にしかしられない」とジョブスがいってるということだが、これは間違ってる。 「どういう点を作ってる」かは、当然やってんだから、わかってる。分からないのは、その点が「繋がる」かどうかだな。…

    詩と美術は区別できるか

     
       ハロルド・ローゼンバーグによれば、「現代美術は一種のケンタウルスのようなもので、なかば芸術の素材、なかば言語から成っている」という。現代のあらゆる作品は、そのスタイルを生み出す観念にかかわっており、作品は言葉を分泌することで、自分と眼の間に解釈の霧をさしはさむが、この蜃気楼のようなものから、作品の力が、つまり美学的後継者を通して自らの生命を拡大していく力が生まれてくるのだ。  
       ここ6、7年間の注目すべき現象は、こうした素材-言葉による構成が現代美術のまぎれもないテーマになったということだ。これに関連して一つの興味深いエピソードがある。1969年のあるコンセプチュアル・アートの展覧会に、ジョセフ・コズスが、(同じ時期に開かれていた)「言語-その3」展へ行って美術と詩を区別するように指示した作品を提出した。この展覧会では約70点の作品のすべてが、何らかの方法で言葉を扱っていたが、美術と詩を分類することはほとんど不可能なほどだったという。このことは、コンセプチュアル・アートのあるものが完全に非視覚的になっているのに対して、詩はますます視覚的になりつつあるということを示している。芸術家は伝統的に視覚言語に、詩人は言語的言語にかかわってきたが、こうした言い方からすれば、言語は異種交配を可能にした公分母であり、それによって芸術家と詩人は、最も基本的な血縁関係を認め合いつつあると言えるだろう。そうした意味で、文学雑誌でない本誌がヴィジュアル・ポエトリーの特集を組むことになったのは、それなりの意義があると思う。  
       今日のヴィジュアル・ポエトリーについて述べるためには、その母体としてのコンクリート・ポエトリーについて述べることから始めなければならないが、よく引き合いに出される絵画と文字、絵画と詩の結びつきという点では、(今更言うまでもないことだが)洞穴の壁の文字以前のなぐり書きにまで遡ることができる。それはバビロニア人のパターン・ポエム、ギリシャの田園詩人の形象詩、初期キリスト教僧侶の字謎遊び、ユダヤ神秘哲学者の順列詩などへと受けつがれていく。さらに文学の面では、アポリネールのカリグラム、アリスのなかのはつかねずみの尻尾、ガートルード・スタインの順列詩、E.E.カミングスの実験などがあり、絵画の面では構成主義や未来派のタイポグラフィックな表現、ダダのコラージュ、フォト・モンタージュ、ポスター・ポエム、クレーやカンディンスキーの絵画、そしてタイポグラフィーという手段とコミュニケーションという目的を合理的に結びつけたバウハウスの運動などがある。  
       こうした提携に急激な変化をもたらすきっかけとなったのは、マラルメの「骰子一擲」(1897年)であり、彼は詩を固苦しい直線的な配列から救い出し、テキストを紙面に押しひろげたのである。しかしそれを可能にしたのは、絵画と詩の結びつきについての彼の関心によるよりも、彼が言語の構造から出発し、言語そのものに主権を与え、言葉の物としての自律性を確立したことによるのではないだろうか。そしてこの瞬間から、詩は言語学的科学の方向へも歩みはじめたのであり、コンクリート・ポエトリーにおいてそれ自身のジャンルを確立した新しい詩の実験の基盤は、むしろ後者の方にあると言った方がよりふさわしいだろう。そうした意味では、コンクリート・ポエトリーの未来派やダダヘの関心は二次的なものであり、ソシュールの言語学(記号学はここから発生した)やヴィトゲンシュタインの分析哲学、マックス・ベンゼのテキスト理論などの影響が強くにじみ出ている(しかし、ヴィジュアル・ポエトリーの新しい段階になると、事情はまた大きく変ってくる。というのは、ほかならぬ視覚言語が、言語的言語と対等の比重をもって入り込んでくるからだ)。

    I am gathering you: リブログとクオートが元来的に一致すること。...

    toukubo:

    リブログとクオートが元来的に一致すること。

    edieelee:

1.練習すれば文章はうまくなる良い書き手になりたいなら、たくさん書くしかありません。2.インプットではなくアウトプットに基づいて目標を設定する「3時間がんばろう」というのは、まやかしです。「3ページ書こう」にしましょう。3.単に発表することだけでなく、内容を意識する発表することばかりに集中していると、皮肉なことに、それほど発表の機会にめぐまれないでしょう。4.書くことに十分な時間を費やすプレッシャーの下ではあまり良い仕事はできません。あなたがどんなに賢くても。会議の前夜に深遠な問題に関する文章を頭の中からひねりだすのは無理があります。作家は、何時間も机の前に座り、アイデアと格闘します。夕食や酒席で、他の人に相談したり、散歩をしたり。それからまたいろいろ書きつけます。書き散らしたものが、上手だったり、すぐに使えるものである必要はありません。書いてる最中にアイデアは浮かぶのです。書くことにふんだんに時間を使えば、文章は魔法のような力を持ちえます。ある一時の瞬間にあなたの頭の中にしかなかったイメージを、時空を超えて他の誰かの頭の中に生み出すことができるのですから。5.みんな口だけは立派人はしばしば、自分が今書こうとしているものは凄いものになりそうだ、と誰かに吹聴します。何年か過ぎても、「今、何を書いてるの?」という質問に対するその人の答えは変わりません。そんな答え方が上達する以外に実際には何もしていないのです。他方で、実際に何かをしていれば、必ず進歩があります。「今、何を書いてるの?」と誰かに尋ねられても戸惑ってしまいます。そもそも、その説明は難しいからです。あなたが、実際に書いていて、成功しそうなほどに一生懸命に働いているなら、無力感や劣等感・疲労感を感じていることでしょう。逆にそうでないなら、あなたの働き方は十分でないということです。6.謎かけしてみる自分の仕事を、パズルへの答えのように表現してみましょう。
XとYは同じ仮定からスタートしましたが正反対の結論に至りました。どうしてでしょう?
ここに三つの一見して全て異なる問題があります。が、実は全て同じ一つの問題が偽装していただけでした。どうしてかお話しましょう。
理論的な予測とは違った現象が観察できます。理論が間違っているのでしょうか、それとも何か別な要素が見落とされているのでしょうか。
これらのやり方に厳密にとらわれる必要はないですが、聞き手に内容を効果的に伝える手助けになります。7.書く時間を優先する書き仕事を他の仕事より優先しましょう。書くのが一番はかどる時間を確保する習慣を身につけましょう。8.あなたの見解の全てが核心的なわけではない興味を引かれる重要な問いへの分析的な把握ができずに挫折し、書くのをやめてしまう人は多いです。小さく始めましょう。問題そのものを洗練させるのは難しいです。使う言葉を正確に定義してみたり、あなたの論拠がどれだけ効果的か確認しましょう。9.最も考え抜いたことでも、しばしば間違っている優秀な人々は、研究や執筆中に出会った経験によって、ガラッと今までのやり方を変えてしまいます。実践の中で学んで、ときには過去の間違いに気づかされるのです。10.何度でも書き直そう他の人に見てもらいましょう。仲間や信頼のおける人と文章を交換してみましょう。批判や拒否反応への恐れを克服する必要はあるでしょうけども。でも、最初から上手に書ける人なんていません。良い書き手かそうでないかの違いは、文章がうまいかどうかというよりは、どれだけ書き直しているかで決まるのです。臆せず書いて人に見せること。肝に銘じておきたいところです。人それぞれ書くのに適した時間があるというのもその通りな感じがしますね。何度も書き直しながら、失敗しながら上達するというのは他のことにも当てはまりそうです。
文章力向上のための10の基本的心構え: とみー

    edieelee:

    1.練習すれば文章はうまくなる

    良い書き手になりたいなら、たくさん書くしかありません。


    2.インプットではなくアウトプットに基づいて目標を設定する

    「3時間がんばろう」というのは、まやかしです。「3ページ書こう」にしましょう。


    3.単に発表することだけでなく、内容を意識する

    発表することばかりに集中していると、皮肉なことに、それほど発表の機会にめぐまれないでしょう。


    4.書くことに十分な時間を費やす

    プレッシャーの下ではあまり良い仕事はできません。あなたがどんなに賢くても。会議の前夜に深遠な問題に関する文章を頭の中からひねりだすのは無理があります。

    作家は、何時間も机の前に座り、アイデアと格闘します。夕食や酒席で、他の人に相談したり、散歩をしたり。それからまたいろいろ書きつけます。書き散らしたものが、上手だったり、すぐに使えるものである必要はありません。書いてる最中にアイデアは浮かぶのです。

    書くことにふんだんに時間を使えば、文章は魔法のような力を持ちえます。ある一時の瞬間にあなたの頭の中にしかなかったイメージを、時空を超えて他の誰かの頭の中に生み出すことができるのですから。


    5.みんな口だけは立派

    人はしばしば、自分が今書こうとしているものは凄いものになりそうだ、と誰かに吹聴します。何年か過ぎても、「今、何を書いてるの?」という質問に対するその人の答えは変わりません。そんな答え方が上達する以外に実際には何もしていないのです。

    他方で、実際に何かをしていれば、必ず進歩があります。「今、何を書いてるの?」と誰かに尋ねられても戸惑ってしまいます。そもそも、その説明は難しいからです。あなたが、実際に書いていて、成功しそうなほどに一生懸命に働いているなら、無力感や劣等感・疲労感を感じていることでしょう。逆にそうでないなら、あなたの働き方は十分でないということです。


    6.謎かけしてみる

    自分の仕事を、パズルへの答えのように表現してみましょう。

    • XとYは同じ仮定からスタートしましたが正反対の結論に至りました。どうしてでしょう?
    • ここに三つの一見して全て異なる問題があります。が、実は全て同じ一つの問題が偽装していただけでした。どうしてかお話しましょう。
    • 理論的な予測とは違った現象が観察できます。理論が間違っているのでしょうか、それとも何か別な要素が見落とされているのでしょうか。

    これらのやり方に厳密にとらわれる必要はないですが、聞き手に内容を効果的に伝える手助けになります。


    7.書く時間を優先する

    書き仕事を他の仕事より優先しましょう。書くのが一番はかどる時間を確保する習慣を身につけましょう。


    8.あなたの見解の全てが核心的なわけではない

    興味を引かれる重要な問いへの分析的な把握ができずに挫折し、書くのをやめてしまう人は多いです。小さく始めましょう。問題そのものを洗練させるのは難しいです。使う言葉を正確に定義してみたり、あなたの論拠がどれだけ効果的か確認しましょう。


    9.最も考え抜いたことでも、しばしば間違っている

    優秀な人々は、研究や執筆中に出会った経験によって、ガラッと今までのやり方を変えてしまいます。実践の中で学んで、ときには過去の間違いに気づかされるのです。


    10.何度でも書き直そう

    他の人に見てもらいましょう。仲間や信頼のおける人と文章を交換してみましょう。批判や拒否反応への恐れを克服する必要はあるでしょうけども。でも、最初から上手に書ける人なんていません。良い書き手かそうでないかの違いは、文章がうまいかどうかというよりは、どれだけ書き直しているかで決まるのです。


    臆せず書いて人に見せること。肝に銘じておきたいところです。人それぞれ書くのに適した時間があるというのもその通りな感じがしますね。何度も書き直しながら、失敗しながら上達するというのは他のことにも当てはまりそうです。

    文章力向上のための10の基本的心構え: とみー

    (via lalalila)

      一つ前のポストで紹介した「バルデッサリ、ルウィットを歌う」で歌われていたルウィットの「コンセプチュアル・アートに関するセンテンス」の日本語訳です。初出は1969年発行の”0-9 (New York)” 及び “Art-Language (England)”1969年5月号。このテキストは1973年発行の”in Six Years: The Dematerialization of the Art Object from 1966 to 1972″ルーシー・リッパード編、にも掲載されています。
      原文はこちら

      「コンセプチュアル・アートに関するセンテンス」
      ソル・ルウィット

      1. コンセプチュアル・アーティストは合理主義者というより神秘主義者だ。彼らが飛躍する結論には、論理では到達できない。
      2. 合理的判断は、合理的判断を繰り返す。
      3. 非合理的判断は、新しい経験をもたらす。
      4. 形式主義の芸術は本質的に合理的だ。
      5. 非理性的思考は、絶対的かつ論理的に跡づけることができる。
      6. もしアーティストが制作途中に考えを変えたなら、作品は妥協の産物になり、過去の模倣となる。
      7. アーティスト個人の意志は、着想から完成までのプロセスにおいて副次的なものである。彼の意図は単なるエゴでしかない。
      8. 絵画や彫刻という言葉は、伝統の全体とその受容を意味しており、その言葉の使用は、伝統を乗り越える作品を渋々制作しようとするアーティストたちに制約を課すことになる。
      9. コンセプトとアイディアは別ものだ。前者が全体的な方向性を定めるのに対し、後者はその構成要素なのだ。アイディアはコンセプトの手段である。
      10. アイディアそれ自体で作品たり得る。アイディアは形へと発展するかもしれない一連の[思考の]流れの中にある。すべてのアイディアが物質化される必要はない。
      11. アイディアは必ずしも論理的秩序に従って展開されるわけではない。それは思いもよらない方向に発展することもある。だがあるアイディアは、次のものが形成される前に、心の中で感性されなければならない。
      12. 成立した作品のそれぞれには、形にならなかった多くのバリエーションが存在する。
      13. 作品はアーティストの心から鑑賞者の心への導体である。しかしそれは鑑賞者に届かないかもしれないし、アーティストの心に留まるかもしれない。
      14. アーティスト同士の言葉のやりとりが、アイディアの連鎖を生むことがある。彼らが同じコンセプトを共有しているなら。
      15. 他の形式より本質的に優れた形式は存在しないのだから、アーティストは(文章でも語りでも)
      言葉の表現からモノとしての表現にいたるまで、あらゆる形式を利用することができる。
      16. 芸術のためのアイディアに基づいて言葉を使うならば、その言葉は芸術であって文学ではない。同様に数字が用いられた場合、それは数学ではない。
      17. 芸術に関するすべてのアイディアはそれ自体芸術であり、芸術の伝統の枠内にある。
      18. 人は過去の芸術を、現在の決まり事に当てはめて理解してしまう。そのため、過去の芸術を誤解することになる。
      19. 芸術の決まり事は、個別の作品によって変えられる。
      20. 良い作品は、私たちの感覚を変え、そうして決まり事に対する理解も変える。
      21. 様々なアイディアを知ることが、新しいアイディアへと導く。
      22. アーティストは自らの作品のイメージを持つことはできないし、作品が完成するまで、それを自覚することはできない。
      23. あるアーティストが作品を誤解する(作者とは違った理解をする)ことがある。しかしその誤解が彼の思考の連鎖を触発することもある。
      24. 認知とは主観的なものだ。
      25. アーティストが、必ずしも自身の作品を理解している必要はないかもしれない。アーティストの見識は他の人々に比べて優れているわけでも劣っているわけでもない。
      26. アーティストが、自分の作品より他人の作品をより良く理解することがある。
      27. 作品のコンセプトには、素材や制作プロセスが含まれることもある。
      28. アーティストの心に作品のアイディアが生まれた時点で作品の最終形態は決まるのであり、作品の制作は盲目的に遂行される。その際には、アーティストが気づかない多くの副産物が生み出される。それらは、新しい作品のアイディアとして活かされることもあるだろう。
      29. 制作プロセスは機械的であって、みだりに操作するべきではない。それが進むに任せなければならない。
      30. 芸術作品には数多くの要素が含まれるが、最も重要なのは最もあからさまな要素だ。
      31. アーティストが素材を変えながら複数の作品に同じ形式を用いる場合、彼のコンセプトには素材が含まれていると考えられる。
      32. 陳腐なアイディアを美しく仕上げることはできない。
      33. 良いアイディアをだめな作品に仕上げるのは難しい。
      34. 過剰な技術を身につけたアーティストの作品は、表層的なものになる。
      35. 以上の文はアートについてのコメントであって、アートではない。

      1 名前: ◆newsSM/aEE @きよたろーφφφ ★[] 投稿日:2011/11/22(火) 20:05:17.00 ID:???


      物語づくりで、『要素の相対論』(勝手に命名)を用いるとより
      娯楽性が増すかもしれないという話題です。



      作品をよりエンターテイメントにするとき、「自然さの演出」と、「不自然さの演出」に気をつけてみましょう。
      この二つは共存可能で、適材適所で配置できるとより質の高い作品となるはずです。ストーリーや
      キャラクターの言動、世界観設定、キャラに付随する特殊能力など、すべてに応用可能です。



      ストーリーの盛り上がりを例にとって説明してみます。自然さとは、言い換えれば当たり前な展開です。
      主人公いたとして、その人物がどのように過ごすことが当たり前か、主人公の境遇が過酷だとするなら、
      どのような状況が当たり前なのか……という皆さんの最大公約数を引き出す行為です。



      そして不自然さとは、言い換えれば外連味です。外連味は、カッコ良さとか、見栄えとか、もっというなら
      その場のノリという変換も可能ですあくまで自分が考える「不自然さ」なので、ご容赦願います)。



      自然と不自然には相対的な差がありまして、そのレールに乗っている(つまり物語を読んでいる)人物は
      その相対差を『物語の起伏』と感じます。この起伏が大きい、つまり高低差があると、レールに乗っている
      人間も「なんか上にいったり下にいったりしてる!」みたいに気づきますよね? それが演出です。



      これは自分の作品なのですから、そこに個性も盛り込みましょう。通常、本当ならここではこういう
      自然な対応を取らざるを得ないけど、物語が盛り上がるのはきっとこうだ!!と思ったら、絶対そっちを
      選ぶと良いです。



      それは天啓でも閃きでも、今までの経験からでも、なんでも良いのですが、自身の信じる部分に従って
      書く行為とは、作品のオリジナリティを強める働きがあります。誰とも違う変化こそが、その作者ならでは
      の特徴になり、結果読者への印象を強めます。



      もちろんその個性の選択が人気を左右するので繊細で難しい決断なわけですが、起伏なく平坦な作品
      よりも個性がある作品のほうが、創作としては一歩前進ですので、止める必要はありません。



      で、むしろその後に生じる「つじつま合わせ」に苦労しましょう。まず起伏ありき、矛盾はあとで解決、
      この方が切れ味鋭い作品がうまれるはずです。矛盾解消のために四苦八苦することは、「改稿スキル」
      の向上につながって良いです。



      2 名前: ◆newsSM/aEE @きよたろーφφφ ★[] 投稿日:2011/11/22(火) 20:05:25.02 ID:???


      具体例。不良がクラスでいじめをしているとします。みんなは普通はびびって何も言いません。これが
      自然。しかし、ここで主人公は不良に「やめろ」を言葉を発する。これが不自然。不自然なシーンでは、
      無理矢理な展開でも、そっちのほうが格好いいじゃん!と思ったら、それは譲らないことが大事です。



      ただ、そこだけ気合いを入れて盛り上げようと思っても、実は物語自体があっと驚く展開になったわけ
      ではありません。相対論的に考えると、実は「盛り上がり前に描かれている内容」のほうが重要です。



      それまでをちゃんと「自然」に書けているか――読みやすさだったり、世界観の丁寧な説明だったり、
      親切な誘導だったり。『いじめを黙認する教室』というのが「自然」である状況を、盛り上げる前に如何に
      描いておくか。その相対差、高低差が『起伏』になります。



      なので、できるかぎり前ふりは手を抜かないようにしないといけません。忘れないようにしたいのは、
      「不自然さ」は、「自然の中にある異端」だから不自然なのです。不自然があちこちに存在したら、
      それは相対的な尖りが感じられず、とっておきの武器としては機能しません。



      々にして、書きたいシーンというのは「不自然なシーン」のはずです。しかし書きたいものだけを気合い
      入れて書いても、物語の起伏=エンターテイメント性はでないのです。その周りにある高低差を意識し、
      「自然なシーン」もちゃんと描くことが重要です。



      「読みやすさ」や「わかりやすさ」は、バカにできません。それがあってはじめて「難解な比喩」の効果が



      あとすこしだけ、文章表現について。こちらでは「親切」と「不親切」で相対論を。冒頭~中盤まで
      世界観説明、キャラクター描写はなるべく親切に書いておきます。そして肝心なこだわりの部分は、
      わざと不親切に描くのです。とくにこれは人間関係の描写で威力を発揮します。



      体的には恋愛やラブコメ的な物語では、『好き』という言葉で『嫌い』を表現できたり、『嫌い』と言ってる
      その本心が実は『好き』だったりと、かなり一言一言が大事になってきます。



      好きだ」と言うのは簡単ですが、あえて不親切に「ようやく、君の姿が見えたかも」とか言ったりする
      わけです。そんな「不親切」な表現の前に、そのキャラクターが相手のことを好きになっているだろうな、
      と思われる描写を「親切」に描く。そこが大事なのではないかと思う次第です。



      文ツイート、大変失礼いたしました。
      みんなも小説を書こう! 
      そして電撃小説大賞に応募してみよう! 応募待ってます! m(_ _)m

      (Source: little-1999)

      22 名前:この名無しがすごい![sage] 投稿日:2010/02/10(水) 19:48:14 ID:MZtyEaSy
      »18
      プロットって基本

      1.どういう内容で何枚くらいの作品か?(概要)
      2.読者層はどこを狙うのかか?
      3.類型作品はあるか(小説、漫画、映画問わず、モチーフやヴィジュアルイメージとして使うのか、それとも視点を代えてアレンジするのか)
      4.小説の中で何を見せたいのか(文章の巧さか、ストーリーか、アクションか、萌えか)
      5.キャラクター設定。(性別、大まかな年齢や思考党を簡単に箇条書き)
      6.ストーリーライン(どんな始まりで、どう話が収束していくのか)

      こんな感じだから、それをそのまま埋めていけば形にはなる。

      大体1を800~1200字くらいでまとめて、2と3は400字以内。
      4を600~800字、5を1200字~2000字(内容によってはそれ以上)
      6は2000字以上。(起承転結の四つのトピックに分けると1トピック約400字位)
      俺は大体そんな感じで作れば、最低でもA4三枚は超える。
      綺麗に書いたところで、突っ返されるのがオチなのが悲しいところだが……。

      I am gathering you: Connecting the Dots論

      toukubo:

      内田樹さんのコネクティングドッツも細部もやや間違ってそう。些細なとこだけど。「自分がなぜそのドットを選んだかが事後的にしかしられない」とジョブスがいってるということだが、これは間違ってる。 「どういう点を作ってる」かは、当然やってんだから、わかってる。分からないのは、その点が「繋がる」かどうかだな。…

      詩と美術は区別できるか

       
         ハロルド・ローゼンバーグによれば、「現代美術は一種のケンタウルスのようなもので、なかば芸術の素材、なかば言語から成っている」という。現代のあらゆる作品は、そのスタイルを生み出す観念にかかわっており、作品は言葉を分泌することで、自分と眼の間に解釈の霧をさしはさむが、この蜃気楼のようなものから、作品の力が、つまり美学的後継者を通して自らの生命を拡大していく力が生まれてくるのだ。  
         ここ6、7年間の注目すべき現象は、こうした素材-言葉による構成が現代美術のまぎれもないテーマになったということだ。これに関連して一つの興味深いエピソードがある。1969年のあるコンセプチュアル・アートの展覧会に、ジョセフ・コズスが、(同じ時期に開かれていた)「言語-その3」展へ行って美術と詩を区別するように指示した作品を提出した。この展覧会では約70点の作品のすべてが、何らかの方法で言葉を扱っていたが、美術と詩を分類することはほとんど不可能なほどだったという。このことは、コンセプチュアル・アートのあるものが完全に非視覚的になっているのに対して、詩はますます視覚的になりつつあるということを示している。芸術家は伝統的に視覚言語に、詩人は言語的言語にかかわってきたが、こうした言い方からすれば、言語は異種交配を可能にした公分母であり、それによって芸術家と詩人は、最も基本的な血縁関係を認め合いつつあると言えるだろう。そうした意味で、文学雑誌でない本誌がヴィジュアル・ポエトリーの特集を組むことになったのは、それなりの意義があると思う。  
         今日のヴィジュアル・ポエトリーについて述べるためには、その母体としてのコンクリート・ポエトリーについて述べることから始めなければならないが、よく引き合いに出される絵画と文字、絵画と詩の結びつきという点では、(今更言うまでもないことだが)洞穴の壁の文字以前のなぐり書きにまで遡ることができる。それはバビロニア人のパターン・ポエム、ギリシャの田園詩人の形象詩、初期キリスト教僧侶の字謎遊び、ユダヤ神秘哲学者の順列詩などへと受けつがれていく。さらに文学の面では、アポリネールのカリグラム、アリスのなかのはつかねずみの尻尾、ガートルード・スタインの順列詩、E.E.カミングスの実験などがあり、絵画の面では構成主義や未来派のタイポグラフィックな表現、ダダのコラージュ、フォト・モンタージュ、ポスター・ポエム、クレーやカンディンスキーの絵画、そしてタイポグラフィーという手段とコミュニケーションという目的を合理的に結びつけたバウハウスの運動などがある。  
         こうした提携に急激な変化をもたらすきっかけとなったのは、マラルメの「骰子一擲」(1897年)であり、彼は詩を固苦しい直線的な配列から救い出し、テキストを紙面に押しひろげたのである。しかしそれを可能にしたのは、絵画と詩の結びつきについての彼の関心によるよりも、彼が言語の構造から出発し、言語そのものに主権を与え、言葉の物としての自律性を確立したことによるのではないだろうか。そしてこの瞬間から、詩は言語学的科学の方向へも歩みはじめたのであり、コンクリート・ポエトリーにおいてそれ自身のジャンルを確立した新しい詩の実験の基盤は、むしろ後者の方にあると言った方がよりふさわしいだろう。そうした意味では、コンクリート・ポエトリーの未来派やダダヘの関心は二次的なものであり、ソシュールの言語学(記号学はここから発生した)やヴィトゲンシュタインの分析哲学、マックス・ベンゼのテキスト理論などの影響が強くにじみ出ている(しかし、ヴィジュアル・ポエトリーの新しい段階になると、事情はまた大きく変ってくる。というのは、ほかならぬ視覚言語が、言語的言語と対等の比重をもって入り込んでくるからだ)。

      I am gathering you: リブログとクオートが元来的に一致すること。...

      toukubo:

      リブログとクオートが元来的に一致すること。

      edieelee:

1.練習すれば文章はうまくなる良い書き手になりたいなら、たくさん書くしかありません。2.インプットではなくアウトプットに基づいて目標を設定する「3時間がんばろう」というのは、まやかしです。「3ページ書こう」にしましょう。3.単に発表することだけでなく、内容を意識する発表することばかりに集中していると、皮肉なことに、それほど発表の機会にめぐまれないでしょう。4.書くことに十分な時間を費やすプレッシャーの下ではあまり良い仕事はできません。あなたがどんなに賢くても。会議の前夜に深遠な問題に関する文章を頭の中からひねりだすのは無理があります。作家は、何時間も机の前に座り、アイデアと格闘します。夕食や酒席で、他の人に相談したり、散歩をしたり。それからまたいろいろ書きつけます。書き散らしたものが、上手だったり、すぐに使えるものである必要はありません。書いてる最中にアイデアは浮かぶのです。書くことにふんだんに時間を使えば、文章は魔法のような力を持ちえます。ある一時の瞬間にあなたの頭の中にしかなかったイメージを、時空を超えて他の誰かの頭の中に生み出すことができるのですから。5.みんな口だけは立派人はしばしば、自分が今書こうとしているものは凄いものになりそうだ、と誰かに吹聴します。何年か過ぎても、「今、何を書いてるの?」という質問に対するその人の答えは変わりません。そんな答え方が上達する以外に実際には何もしていないのです。他方で、実際に何かをしていれば、必ず進歩があります。「今、何を書いてるの?」と誰かに尋ねられても戸惑ってしまいます。そもそも、その説明は難しいからです。あなたが、実際に書いていて、成功しそうなほどに一生懸命に働いているなら、無力感や劣等感・疲労感を感じていることでしょう。逆にそうでないなら、あなたの働き方は十分でないということです。6.謎かけしてみる自分の仕事を、パズルへの答えのように表現してみましょう。
XとYは同じ仮定からスタートしましたが正反対の結論に至りました。どうしてでしょう?
ここに三つの一見して全て異なる問題があります。が、実は全て同じ一つの問題が偽装していただけでした。どうしてかお話しましょう。
理論的な予測とは違った現象が観察できます。理論が間違っているのでしょうか、それとも何か別な要素が見落とされているのでしょうか。
これらのやり方に厳密にとらわれる必要はないですが、聞き手に内容を効果的に伝える手助けになります。7.書く時間を優先する書き仕事を他の仕事より優先しましょう。書くのが一番はかどる時間を確保する習慣を身につけましょう。8.あなたの見解の全てが核心的なわけではない興味を引かれる重要な問いへの分析的な把握ができずに挫折し、書くのをやめてしまう人は多いです。小さく始めましょう。問題そのものを洗練させるのは難しいです。使う言葉を正確に定義してみたり、あなたの論拠がどれだけ効果的か確認しましょう。9.最も考え抜いたことでも、しばしば間違っている優秀な人々は、研究や執筆中に出会った経験によって、ガラッと今までのやり方を変えてしまいます。実践の中で学んで、ときには過去の間違いに気づかされるのです。10.何度でも書き直そう他の人に見てもらいましょう。仲間や信頼のおける人と文章を交換してみましょう。批判や拒否反応への恐れを克服する必要はあるでしょうけども。でも、最初から上手に書ける人なんていません。良い書き手かそうでないかの違いは、文章がうまいかどうかというよりは、どれだけ書き直しているかで決まるのです。臆せず書いて人に見せること。肝に銘じておきたいところです。人それぞれ書くのに適した時間があるというのもその通りな感じがしますね。何度も書き直しながら、失敗しながら上達するというのは他のことにも当てはまりそうです。
文章力向上のための10の基本的心構え: とみー

      edieelee:

      1.練習すれば文章はうまくなる

      良い書き手になりたいなら、たくさん書くしかありません。


      2.インプットではなくアウトプットに基づいて目標を設定する

      「3時間がんばろう」というのは、まやかしです。「3ページ書こう」にしましょう。


      3.単に発表することだけでなく、内容を意識する

      発表することばかりに集中していると、皮肉なことに、それほど発表の機会にめぐまれないでしょう。


      4.書くことに十分な時間を費やす

      プレッシャーの下ではあまり良い仕事はできません。あなたがどんなに賢くても。会議の前夜に深遠な問題に関する文章を頭の中からひねりだすのは無理があります。

      作家は、何時間も机の前に座り、アイデアと格闘します。夕食や酒席で、他の人に相談したり、散歩をしたり。それからまたいろいろ書きつけます。書き散らしたものが、上手だったり、すぐに使えるものである必要はありません。書いてる最中にアイデアは浮かぶのです。

      書くことにふんだんに時間を使えば、文章は魔法のような力を持ちえます。ある一時の瞬間にあなたの頭の中にしかなかったイメージを、時空を超えて他の誰かの頭の中に生み出すことができるのですから。


      5.みんな口だけは立派

      人はしばしば、自分が今書こうとしているものは凄いものになりそうだ、と誰かに吹聴します。何年か過ぎても、「今、何を書いてるの?」という質問に対するその人の答えは変わりません。そんな答え方が上達する以外に実際には何もしていないのです。

      他方で、実際に何かをしていれば、必ず進歩があります。「今、何を書いてるの?」と誰かに尋ねられても戸惑ってしまいます。そもそも、その説明は難しいからです。あなたが、実際に書いていて、成功しそうなほどに一生懸命に働いているなら、無力感や劣等感・疲労感を感じていることでしょう。逆にそうでないなら、あなたの働き方は十分でないということです。


      6.謎かけしてみる

      自分の仕事を、パズルへの答えのように表現してみましょう。

      • XとYは同じ仮定からスタートしましたが正反対の結論に至りました。どうしてでしょう?
      • ここに三つの一見して全て異なる問題があります。が、実は全て同じ一つの問題が偽装していただけでした。どうしてかお話しましょう。
      • 理論的な予測とは違った現象が観察できます。理論が間違っているのでしょうか、それとも何か別な要素が見落とされているのでしょうか。

      これらのやり方に厳密にとらわれる必要はないですが、聞き手に内容を効果的に伝える手助けになります。


      7.書く時間を優先する

      書き仕事を他の仕事より優先しましょう。書くのが一番はかどる時間を確保する習慣を身につけましょう。


      8.あなたの見解の全てが核心的なわけではない

      興味を引かれる重要な問いへの分析的な把握ができずに挫折し、書くのをやめてしまう人は多いです。小さく始めましょう。問題そのものを洗練させるのは難しいです。使う言葉を正確に定義してみたり、あなたの論拠がどれだけ効果的か確認しましょう。


      9.最も考え抜いたことでも、しばしば間違っている

      優秀な人々は、研究や執筆中に出会った経験によって、ガラッと今までのやり方を変えてしまいます。実践の中で学んで、ときには過去の間違いに気づかされるのです。


      10.何度でも書き直そう

      他の人に見てもらいましょう。仲間や信頼のおける人と文章を交換してみましょう。批判や拒否反応への恐れを克服する必要はあるでしょうけども。でも、最初から上手に書ける人なんていません。良い書き手かそうでないかの違いは、文章がうまいかどうかというよりは、どれだけ書き直しているかで決まるのです。


      臆せず書いて人に見せること。肝に銘じておきたいところです。人それぞれ書くのに適した時間があるというのもその通りな感じがしますね。何度も書き直しながら、失敗しながら上達するというのは他のことにも当てはまりそうです。

      文章力向上のための10の基本的心構え: とみー

      (via lalalila)

      "

        一つ前のポストで紹介した「バルデッサリ、ルウィットを歌う」で歌われていたルウィットの「コンセプチュアル・アートに関するセンテンス」の日本語訳です。初出は1969年発行の”0-9 (New York)” 及び “Art-Language (England)”1969年5月号。このテキストは1973年発行の”in Six Years: The Dematerialization of the Art Object from 1966 to 1972″ルーシー・リッパード編、にも掲載されています。
        原文はこちら

        「コンセプチュアル・アートに関するセンテンス」
        ソル・ルウィット

        1. コンセプチュアル・アーティストは合理主義者というより神秘主義者だ。彼らが飛躍する結論には、論理では到達できない。
        2. 合理的判断は、合理的判断を繰り返す。
        3. 非合理的判断は、新しい経験をもたらす。
        4. 形式主義の芸術は本質的に合理的だ。
        5. 非理性的思考は、絶対的かつ論理的に跡づけることができる。
        6. もしアーティストが制作途中に考えを変えたなら、作品は妥協の産物になり、過去の模倣となる。
        7. アーティスト個人の意志は、着想から完成までのプロセスにおいて副次的なものである。彼の意図は単なるエゴでしかない。
        8. 絵画や彫刻という言葉は、伝統の全体とその受容を意味しており、その言葉の使用は、伝統を乗り越える作品を渋々制作しようとするアーティストたちに制約を課すことになる。
        9. コンセプトとアイディアは別ものだ。前者が全体的な方向性を定めるのに対し、後者はその構成要素なのだ。アイディアはコンセプトの手段である。
        10. アイディアそれ自体で作品たり得る。アイディアは形へと発展するかもしれない一連の[思考の]流れの中にある。すべてのアイディアが物質化される必要はない。
        11. アイディアは必ずしも論理的秩序に従って展開されるわけではない。それは思いもよらない方向に発展することもある。だがあるアイディアは、次のものが形成される前に、心の中で感性されなければならない。
        12. 成立した作品のそれぞれには、形にならなかった多くのバリエーションが存在する。
        13. 作品はアーティストの心から鑑賞者の心への導体である。しかしそれは鑑賞者に届かないかもしれないし、アーティストの心に留まるかもしれない。
        14. アーティスト同士の言葉のやりとりが、アイディアの連鎖を生むことがある。彼らが同じコンセプトを共有しているなら。
        15. 他の形式より本質的に優れた形式は存在しないのだから、アーティストは(文章でも語りでも)
        言葉の表現からモノとしての表現にいたるまで、あらゆる形式を利用することができる。
        16. 芸術のためのアイディアに基づいて言葉を使うならば、その言葉は芸術であって文学ではない。同様に数字が用いられた場合、それは数学ではない。
        17. 芸術に関するすべてのアイディアはそれ自体芸術であり、芸術の伝統の枠内にある。
        18. 人は過去の芸術を、現在の決まり事に当てはめて理解してしまう。そのため、過去の芸術を誤解することになる。
        19. 芸術の決まり事は、個別の作品によって変えられる。
        20. 良い作品は、私たちの感覚を変え、そうして決まり事に対する理解も変える。
        21. 様々なアイディアを知ることが、新しいアイディアへと導く。
        22. アーティストは自らの作品のイメージを持つことはできないし、作品が完成するまで、それを自覚することはできない。
        23. あるアーティストが作品を誤解する(作者とは違った理解をする)ことがある。しかしその誤解が彼の思考の連鎖を触発することもある。
        24. 認知とは主観的なものだ。
        25. アーティストが、必ずしも自身の作品を理解している必要はないかもしれない。アーティストの見識は他の人々に比べて優れているわけでも劣っているわけでもない。
        26. アーティストが、自分の作品より他人の作品をより良く理解することがある。
        27. 作品のコンセプトには、素材や制作プロセスが含まれることもある。
        28. アーティストの心に作品のアイディアが生まれた時点で作品の最終形態は決まるのであり、作品の制作は盲目的に遂行される。その際には、アーティストが気づかない多くの副産物が生み出される。それらは、新しい作品のアイディアとして活かされることもあるだろう。
        29. 制作プロセスは機械的であって、みだりに操作するべきではない。それが進むに任せなければならない。
        30. 芸術作品には数多くの要素が含まれるが、最も重要なのは最もあからさまな要素だ。
        31. アーティストが素材を変えながら複数の作品に同じ形式を用いる場合、彼のコンセプトには素材が含まれていると考えられる。
        32. 陳腐なアイディアを美しく仕上げることはできない。
        33. 良いアイディアをだめな作品に仕上げるのは難しい。
        34. 過剰な技術を身につけたアーティストの作品は、表層的なものになる。
        35. 以上の文はアートについてのコメントであって、アートではない。

        "
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        1 名前: ◆newsSM/aEE @きよたろーφφφ ★[] 投稿日:2011/11/22(火) 20:05:17.00 ID:???


        物語づくりで、『要素の相対論』(勝手に命名)を用いるとより
        娯楽性が増すかもしれないという話題です。



        作品をよりエンターテイメントにするとき、「自然さの演出」と、「不自然さの演出」に気をつけてみましょう。
        この二つは共存可能で、適材適所で配置できるとより質の高い作品となるはずです。ストーリーや
        キャラクターの言動、世界観設定、キャラに付随する特殊能力など、すべてに応用可能です。



        ストーリーの盛り上がりを例にとって説明してみます。自然さとは、言い換えれば当たり前な展開です。
        主人公いたとして、その人物がどのように過ごすことが当たり前か、主人公の境遇が過酷だとするなら、
        どのような状況が当たり前なのか……という皆さんの最大公約数を引き出す行為です。



        そして不自然さとは、言い換えれば外連味です。外連味は、カッコ良さとか、見栄えとか、もっというなら
        その場のノリという変換も可能ですあくまで自分が考える「不自然さ」なので、ご容赦願います)。



        自然と不自然には相対的な差がありまして、そのレールに乗っている(つまり物語を読んでいる)人物は
        その相対差を『物語の起伏』と感じます。この起伏が大きい、つまり高低差があると、レールに乗っている
        人間も「なんか上にいったり下にいったりしてる!」みたいに気づきますよね? それが演出です。



        これは自分の作品なのですから、そこに個性も盛り込みましょう。通常、本当ならここではこういう
        自然な対応を取らざるを得ないけど、物語が盛り上がるのはきっとこうだ!!と思ったら、絶対そっちを
        選ぶと良いです。



        それは天啓でも閃きでも、今までの経験からでも、なんでも良いのですが、自身の信じる部分に従って
        書く行為とは、作品のオリジナリティを強める働きがあります。誰とも違う変化こそが、その作者ならでは
        の特徴になり、結果読者への印象を強めます。



        もちろんその個性の選択が人気を左右するので繊細で難しい決断なわけですが、起伏なく平坦な作品
        よりも個性がある作品のほうが、創作としては一歩前進ですので、止める必要はありません。



        で、むしろその後に生じる「つじつま合わせ」に苦労しましょう。まず起伏ありき、矛盾はあとで解決、
        この方が切れ味鋭い作品がうまれるはずです。矛盾解消のために四苦八苦することは、「改稿スキル」
        の向上につながって良いです。



        2 名前: ◆newsSM/aEE @きよたろーφφφ ★[] 投稿日:2011/11/22(火) 20:05:25.02 ID:???


        具体例。不良がクラスでいじめをしているとします。みんなは普通はびびって何も言いません。これが
        自然。しかし、ここで主人公は不良に「やめろ」を言葉を発する。これが不自然。不自然なシーンでは、
        無理矢理な展開でも、そっちのほうが格好いいじゃん!と思ったら、それは譲らないことが大事です。



        ただ、そこだけ気合いを入れて盛り上げようと思っても、実は物語自体があっと驚く展開になったわけ
        ではありません。相対論的に考えると、実は「盛り上がり前に描かれている内容」のほうが重要です。



        それまでをちゃんと「自然」に書けているか――読みやすさだったり、世界観の丁寧な説明だったり、
        親切な誘導だったり。『いじめを黙認する教室』というのが「自然」である状況を、盛り上げる前に如何に
        描いておくか。その相対差、高低差が『起伏』になります。



        なので、できるかぎり前ふりは手を抜かないようにしないといけません。忘れないようにしたいのは、
        「不自然さ」は、「自然の中にある異端」だから不自然なのです。不自然があちこちに存在したら、
        それは相対的な尖りが感じられず、とっておきの武器としては機能しません。



        々にして、書きたいシーンというのは「不自然なシーン」のはずです。しかし書きたいものだけを気合い
        入れて書いても、物語の起伏=エンターテイメント性はでないのです。その周りにある高低差を意識し、
        「自然なシーン」もちゃんと描くことが重要です。



        「読みやすさ」や「わかりやすさ」は、バカにできません。それがあってはじめて「難解な比喩」の効果が



        あとすこしだけ、文章表現について。こちらでは「親切」と「不親切」で相対論を。冒頭~中盤まで
        世界観説明、キャラクター描写はなるべく親切に書いておきます。そして肝心なこだわりの部分は、
        わざと不親切に描くのです。とくにこれは人間関係の描写で威力を発揮します。



        体的には恋愛やラブコメ的な物語では、『好き』という言葉で『嫌い』を表現できたり、『嫌い』と言ってる
        その本心が実は『好き』だったりと、かなり一言一言が大事になってきます。



        好きだ」と言うのは簡単ですが、あえて不親切に「ようやく、君の姿が見えたかも」とか言ったりする
        わけです。そんな「不親切」な表現の前に、そのキャラクターが相手のことを好きになっているだろうな、
        と思われる描写を「親切」に描く。そこが大事なのではないかと思う次第です。



        文ツイート、大変失礼いたしました。
        みんなも小説を書こう! 
        そして電撃小説大賞に応募してみよう! 応募待ってます! m(_ _)m
        "
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        22 名前:この名無しがすごい![sage] 投稿日:2010/02/10(水) 19:48:14 ID:MZtyEaSy
        »18
        プロットって基本

        1.どういう内容で何枚くらいの作品か?(概要)
        2.読者層はどこを狙うのかか?
        3.類型作品はあるか(小説、漫画、映画問わず、モチーフやヴィジュアルイメージとして使うのか、それとも視点を代えてアレンジするのか)
        4.小説の中で何を見せたいのか(文章の巧さか、ストーリーか、アクションか、萌えか)
        5.キャラクター設定。(性別、大まかな年齢や思考党を簡単に箇条書き)
        6.ストーリーライン(どんな始まりで、どう話が収束していくのか)

        こんな感じだから、それをそのまま埋めていけば形にはなる。

        大体1を800~1200字くらいでまとめて、2と3は400字以内。
        4を600~800字、5を1200字~2000字(内容によってはそれ以上)
        6は2000字以上。(起承転結の四つのトピックに分けると1トピック約400字位)
        俺は大体そんな感じで作れば、最低でもA4三枚は超える。
        綺麗に書いたところで、突っ返されるのがオチなのが悲しいところだが……。

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        詩と美術は区別できるか

         
           ハロルド・ローゼンバーグによれば、「現代美術は一種のケンタウルスのようなもので、なかば芸術の素材、なかば言語から成っている」という。現代のあらゆる作品は、そのスタイルを生み出す観念にかかわっており、作品は言葉を分泌することで、自分と眼の間に解釈の霧をさしはさむが、この蜃気楼のようなものから、作品の力が、つまり美学的後継者を通して自らの生命を拡大していく力が生まれてくるのだ。  
           ここ6、7年間の注目すべき現象は、こうした素材-言葉による構成が現代美術のまぎれもないテーマになったということだ。これに関連して一つの興味深いエピソードがある。1969年のあるコンセプチュアル・アートの展覧会に、ジョセフ・コズスが、(同じ時期に開かれていた)「言語-その3」展へ行って美術と詩を区別するように指示した作品を提出した。この展覧会では約70点の作品のすべてが、何らかの方法で言葉を扱っていたが、美術と詩を分類することはほとんど不可能なほどだったという。このことは、コンセプチュアル・アートのあるものが完全に非視覚的になっているのに対して、詩はますます視覚的になりつつあるということを示している。芸術家は伝統的に視覚言語に、詩人は言語的言語にかかわってきたが、こうした言い方からすれば、言語は異種交配を可能にした公分母であり、それによって芸術家と詩人は、最も基本的な血縁関係を認め合いつつあると言えるだろう。そうした意味で、文学雑誌でない本誌がヴィジュアル・ポエトリーの特集を組むことになったのは、それなりの意義があると思う。  
           今日のヴィジュアル・ポエトリーについて述べるためには、その母体としてのコンクリート・ポエトリーについて述べることから始めなければならないが、よく引き合いに出される絵画と文字、絵画と詩の結びつきという点では、(今更言うまでもないことだが)洞穴の壁の文字以前のなぐり書きにまで遡ることができる。それはバビロニア人のパターン・ポエム、ギリシャの田園詩人の形象詩、初期キリスト教僧侶の字謎遊び、ユダヤ神秘哲学者の順列詩などへと受けつがれていく。さらに文学の面では、アポリネールのカリグラム、アリスのなかのはつかねずみの尻尾、ガートルード・スタインの順列詩、E.E.カミングスの実験などがあり、絵画の面では構成主義や未来派のタイポグラフィックな表現、ダダのコラージュ、フォト・モンタージュ、ポスター・ポエム、クレーやカンディンスキーの絵画、そしてタイポグラフィーという手段とコミュニケーションという目的を合理的に結びつけたバウハウスの運動などがある。  
           こうした提携に急激な変化をもたらすきっかけとなったのは、マラルメの「骰子一擲」(1897年)であり、彼は詩を固苦しい直線的な配列から救い出し、テキストを紙面に押しひろげたのである。しかしそれを可能にしたのは、絵画と詩の結びつきについての彼の関心によるよりも、彼が言語の構造から出発し、言語そのものに主権を与え、言葉の物としての自律性を確立したことによるのではないだろうか。そしてこの瞬間から、詩は言語学的科学の方向へも歩みはじめたのであり、コンクリート・ポエトリーにおいてそれ自身のジャンルを確立した新しい詩の実験の基盤は、むしろ後者の方にあると言った方がよりふさわしいだろう。そうした意味では、コンクリート・ポエトリーの未来派やダダヘの関心は二次的なものであり、ソシュールの言語学(記号学はここから発生した)やヴィトゲンシュタインの分析哲学、マックス・ベンゼのテキスト理論などの影響が強くにじみ出ている(しかし、ヴィジュアル・ポエトリーの新しい段階になると、事情はまた大きく変ってくる。というのは、ほかならぬ視覚言語が、言語的言語と対等の比重をもって入り込んでくるからだ)。

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